東北から戻って。


掲載日:2011.04.19

金曜日、本会議終了後からレンタカーを借りて、東北の被災地に向いました。情報関
係の仕事をしている札幌と東京の友人と4人でまずは盛岡に。到着したのは午後10
時30分。初鹿衆議院議員に聞いていた盛岡の駅前にある、格安の盛岡ニューシ
ティーホテルに泊まることに。翌朝、7時出発でまずは宮古市に入りました。海に近
づくにしたがって被害が目に付くようになり、住民の皆さんは瓦礫の撤去や壊れた箇
所の修理、掃除に追われていました。

商店街はまだ使えそうな店舗と壊さなけれなばならない店舗が混在一体となっていま
す。そんな中、大繁盛、人が大勢集まっている大型衣料品店がありました。格安で子
供服、婦人服、寝巻きやタオル、シーツ等、沢山の衣料品がハンガーにかかっていた
り、ワゴンに山積みになって店頭に置かれています。店主に話を聞いてみると

品物はすべて津波にやられ、泥もついたので売れないと思っていたら、全て流された
ので売って欲しいという声があったそうです。泥だけ落として格安料金で出してみた
らどんどん売れたそうです。触ってみると商品は全て濡れています。それでもみんな
買っていくんです。人手が足りなくてパートさんも来てもらっているそうです。周り
のお店も触発されて営業を始めています。宮古から山田町に入りました。津波に流さ
れ、プロパンガスや、ガソリンに引火。町は一面焦げた瓦礫で覆われ、焦げ臭い匂い
が磯の香りと交じり合っていました。小高くなったところにある、町役場は大丈夫
で、町の情報が集まっています。社会福祉協議会の窓口があり、支援物資の配給もそ
こで行なわれています。そこから、10分ほど車で移動したところに、災害ボラン
ティアセンターがあります。全国からボランティアで集まった人たちの拠点となって
います。旭川からボランティアで入っている方が、そこの主幹をしておられましたの
で、情報を頂き仮設の建設現場に行き、その後、避難所の南小学校に支援物資を持っ
て入りました。偶然にも蓮舫大臣がお見舞いに。見送った後、役場の方や、避難所で
暮らしている方々とじっくりお話をさせて頂き、支援に関してどんな議論が国会でさ
れているかお話させていただき、皆さんのご要望もお聞きしました。何よりも、山田
町では1800戸の仮設住宅の需要に対し、今一割しかメドがたっていないんです。
そのことを一番、心配しておられました。支援物資は比較的豊富にあり、今必要なの
は女性のブラジャー(スポーツブラ)女性用のジャージの下、そして、支援物資を運
ぶ為のトートバッグ。幾つか持って行ったのですが皆さん、これが欲しかったと言っ
てました。子どもたちはゲームを持って行ったのですが、ノート、色鉛筆など文房具
が欲しいそうです。避難所を出てからは、大槌町へ。そして、夜10時過ぎでしょう
か、釜石市に入りました。繁華街らしきところなのに、明かりが全くありません。
アーケードらしきもの、ホテルや高い建物が沢山建っているのに、よく目を懲らして
みると全て破壊され道路から両脇に寄せられた瓦礫の小山がずーっと続いています。
沿岸の町や村とは違った被害の状況にまさに言葉を失いました。宿などないので、釜
石の駅前の駐車場で寝袋で車中泊するつもりでいたのですが、駅員さんに教えられ、
ボランティア、自治体から派遣されている災害支援の方々が泊まっている民宿がある
から聞いてみたらどうかということで、行ってみると部屋を一つ用意してくださいま
した。お風呂も無い、食事もない、何十年営業しているんだろう・・とうようなスリ
リングな民宿でしたが屋根があるだけありがたいと宿泊。よく見ると置いてあるもの
も、まるで骨董品屋さんの中にいるみたいで興味深かったです。食事をしていなかっ
たので、被害のほとんどなかった地域に車で向うと赤提灯を二つ発見。地元の方々に
話を聞きたかったので、引き寄せられるように入った店は大繁盛。色々な世代の人た
ちで溢れていました。安くて美味しい店でした。そこで隣に座っていた若い3人と話
をしたのですが、お姉さん夫婦のところに弟さんが避難中との事。電気も点かず、水
も出ず、ろうそくでの暮らし、大変だったそうです。一番心配しているのは仕事のこ
とだそうです。町が壊滅し多くの若者が職を失ったので、みんな仕事を求めて他の町
に行ってしまう。行ってしまうともう釜石には戻らないだろう、そうすると高齢者ば
かりの町になってしまう。短期ではなく、長期的に働ける地元の雇用を早く作らない
と大変なことになりますと言っていました。お店のご主人もいつまでも暗い気持ちで
いても仕方がない、お客さんと沢山話をして、美味しいもの食べてもらって、お酒飲
んでもらって、元気に明るく過ごして前向きな気持ちになることが今は必要だと言っ
てました。翌朝は民宿のご主人が美味しいコーヒーを入れてくれました。釜石港の湾
口堤防がなかったら、ここもやられていましたよ。不安なので早く堤防を修復してく
ださいと言われました。高台から湾口堤防を見てきましたが津波ですっかり壊れてい
ます。飛行機が飛んでくるスピードの津波だったと言いますからものすごい威力だっ
たのでしょう。夜はよくわからなかった釜石の繁華街に行くと、重機で瓦礫の撤去を
したり、店舗を片付けている人たちが。すべて無くなった。いつこの町が再生するの
か、まったく今は考えられないとおっしゃっていました。瓦礫の撤去、そして、壊れ
た店舗やビルの解体、また瓦礫の撤去。人もお金も時間も一体どの位かかるのか。暮
らしと命を守る為にはスピード感が必要です。釜石を出て、大船渡へ。そこから一
旦、内陸を通って仙台へ。そして仙台から、気仙沼、陸前高田に着いたときには、も
う月が出ていました。美しい満月の明かりが瓦礫の町を照らしていました。これは現
実なのか、幻なのか。何もかもなくなっている陸前高田の町に立って被災された方々
の深い悲しみが伝わってくるかのようでした。私の力など小さなものです。でも、や
れる事を精一杯お手伝いしたいと決心して帰ってきました。被災地の一部を視察する
だけでは、TVを見ているだけではこの震災と津波の被害の規模はわからないでしょ
う。本当に大変なことです。復旧、復興、政府も覚悟を持って、そして、やはり復興
庁を東北に置いて、この厳しい状況を毎日見ながら、復興していく様子も毎日確認
し、新たに起きてくる問題に速やかに対応していかなければならないと思います。永
田町から指示を送ってもだめだと私は思います。改めてリポートを作成し、写真も交
えてご報告します。

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