T君の死に思う
掲載日:2010.01.05
明けましておめでとうございます。
慌しく、2009年が過ぎ行き、2010年を迎えました。
昨年は私にとって、忙しさに追われて体も、心も疲れきった感じでした。特に、人からの頼まれごとが多く、予期せぬトラブルも起き、独りで全てに対応するのはキャパオーバーでした。
でも、その中でまた、自分について多くのことを学んだ気がします。私の一番いいところが時として、一番悪いところにもなるのだということ。
今年は私の干支。年女であります。トラ、トラ、トラ。大きな変化が起きるかもしれません。息子も高校を卒業し、東京に行くと言っています。私がこれから彼にしてやれることは、大学の四年間の経済的な援助のみ。もう、毎日ご飯を作ることも、お弁当を作ることも、何やかにやとうるさく言うこともなくなってしまう。家の中では独りになります。この時間とエネルギーを去年の反省を踏まえつつ、何に向けていくか。真剣に考えています。
ただ、30年間、TVレポーターとして生きてきた、また、様々な自分の経験を力に出来るような、そして少しでも人の役に立つような仕事をしていきたいという気持ちは揺るぎません。
この世に生まれてきたからには、自分の幸せだけのために生きていくわけにはいかない気がします。幸い、心も体も健康な状態で息子を社会に送り出す役目は果たせそうなので、残りの人生は”笑顔作り”自分の周りの人たちの笑顔のために生きたいと思います。
さて、新年最初のモノ申すです。
年末、私の店「風音」の看板の字を書いてくれた、そしてUHBで、フリーでディレクターとして頑張っていたT君が亡くなった。まだ、37歳だった。肝臓ガンが全身に転移していました。私が彼に逢ったのは、彼が22歳の頃。トーク DE北海道がスタートする前に、ポテトという番組があって、私はその番組の中で、隔週でシリーズ女という特集を担当していました。企画、ブッキング、演出、すべて担当のディレクターと一緒に作り上げるものでした。
当時あまりテレビでは取り上げることのなかったセックスレスや、虐待、ジェンダーの問題など果敢に挑戦していきました。ある日、若いのに優秀だったT君が担当になりました。
「僕にはエリさんとの仕事は、荷が重過ぎます。緊張します!」と初々しく話していた彼の姿が昨日のことのように私の心によみがえります。
以後、彼とは思い出に残るおもしろい仕事を色々としてきた。
彼の一番いいところは、納得のできないこと、自分の中で理解が不充分な事はやらないというところだった。やりたいと思ったテーマは理解するまで調べ、多くの人に逢い、取材に入るまでに時間をかける人でした。
結婚もしていない、子供もいない彼が、夫婦の問題や親子の問題を取り上げるときには、「エリさん、お母さん仲間、集めてくれますか?お昼でも食べながら、皆さんの話を聞いて参考にしたいんです」と身銭を切って場を作り、彼なりに理解できたところで取材に入ります。新聞や週刊誌の受け売りや、思い込みでの見切り取材は絶対にしない人でした。
ぐんぐんと成長し、いつの間にか押しも押されもしない優秀なディレクターに成長した。そんな彼に私は、自分が27歳のときインドの寺院に瞑想修行に行った話をし、「あなたのような人間は小さくまとまってはダメ。独り身のうちに、自由が利くうちにどんどん経験を積んで見識を広め、感性を養ってもっと大きくなりなさい」といつも話していました。
しかし、彼は会社を辞め、修行の旅に出て、帰ってきたときに仕事があるだろうかと心配し、その心配が邪魔をして思いはあっても、なかなか実行できずにいたのですが、ある日突然、会社を辞め、アジア諸国への貧乏旅行へと旅立ったのです。私は嬉しかった。大きくなって、深くなって帰ってくる彼の姿を想像し、彼の事を弟、息子?のように思っていた私は誇らしかった。
すっかり旅の魅力にとりつかれた彼は、その後、何度か旅を繰り返し、ひとまわりも、ふたまわりも大きくなって、戻ってきた。そして、フリーのディレクターとしてUHBに戻った。
社内で見かける彼はいつも忙しくしていた。仕事が出来るがゆえにあらゆることをまかされる。期待される。彼なら出来て当たり前。さらにフリーであるがゆえに、休めない。社員と違って休んだら収入が無いからだ。体も心も無理をする。決して弱音を吐かず、人の悪口も言わず、静かにちょっとさみしげに微笑んでいる人だった。
いつも彼に目線を運びながら、私は彼の気持ちが痛いほどわかっていた・・・と思う。
亡くなる一月ほど前、入院中の北大病院に彼を見舞った。辛い体をおして、院内のスターバックスでコーヒーを飲みながら一時間ばかり、他愛のない話をした。その中で「今、家賃も生活費も治療費もみんな親が払ってくれているんだ。生活の心配をしないでゆっくりできるのはいいよ」と言ったことが切なかった。
自分を磨き、成長させ、貴重な人材として働いているのにもかかわらず、具合が悪くても休めない、休むと収入が無くなる。何だかおかしい、病院に行かなければと思っていても予定してた日に仕事が入って、先送りにしてしまう。フリーは休ませてくださいがなかなか言えない。言いづらい。そのうち病魔が体を蝕んでどうにも辛くて病院に行ったときには手遅れということになりかねないのだ。彼がそうだった。かなり前から体が痛かった、辛かったのを我慢して頑張っていたのだ。
会社員で、給料を貰っている人には、企業に守られている人にはこの気持ち、この状況、この苦しさはわからないだろう。
T君、お疲れ様。そして、ありがとう。私はあなたに逢えて本当に良かった。あなたの姿、あなたの声はずっと、わたしの心の中にあるでしょう。私の人生における出逢いの中で数少ない、大切な大切な人です。
風音の看板と、我が家の表札。私と息子の名前が楽しそうに並んでいます。国際短編映画際の賞状に書いてくれた受賞者の名前。世界に80人もの映画監督があなたが名前を書いた賞状を持っています。味のある、心のこもった素敵な字です。あなたしか書けない字です。
ありがとう。ゆっくり休んでください。
そして、空から時々、私のぼやきに耳をかして下さいね。さみしいよ・・・。